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僕のラグビー半生

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僕のラグビーとの出会いは鹿児島玉龍中学校でした。

 

小学校は少年団でサッカーに明け暮れた僕は中学校でもサッカーに入ろうかなと軽く考えていました。

 

しかし、鹿児島玉龍中学校にはサッカー部がありませんでした。

 

サッカークラブチームに入るか、それとも新しい部活動を始めるか

 

若干12歳の僕は頭を悩ませていました。

 

同じ小学校から玉龍中学校に進学したサッカーの同級生と部活動見学に行くことになり

 

陸上部の見学に行きました。

 

長距離が得意だった僕は「陸上部もアリかもな」と見学を終えて感じました。

 

家に帰って親に部活動のことを話すと

 

「玉龍ならラグビーせんか!」

 

と父親にラグビーを勧められ、先ほどの同級生とラグビーの見学に行きました。

 

当時は玉龍高校がラグビーが強かったこともあり、玉龍=ラグビーという認識が県内にはありました。

 

また玉龍中学校にはサッカー部は無くてラグビー部はあるという特殊な中学校だったのです(笑)

 

そして見学に行くと先輩達が心優しく迎え入れてくれて

 

ラグビーボールを投げたり、蹴ったり、タッチフットをしたり

 

初めてラグビーボールを触った僕をめちゃくちゃに褒めてくれたのです。

 

「キミ、ラグビーめっちゃ上手いね!」

 

今思えばただの接待の部員勧誘でしたね(笑)

 

そこで「ラグビー面白そう!」

 

と思った僕は同級生と共にラグビー部に入部しました。

 

入ったが最後、優しかった先輩達は怖い先輩に豹変しました。

 

新入部員は道具の用意や片付けなど雑務をやらされ、部活では身体の大きな先輩にしごかれ、ついこの間まで小学生だった僕には大変な環境でした。

 

それでもそれ以上にラグビーが楽しくて、ラグビーの面白さにハマっていきました。

 

今でも人生で初めてのトライを鮮明におぼえています。

 

中学では今でも仲が良い仲間に出会えたりと、ラグビーが繋げてくれた縁に感謝しています。

 

3年次には九州大会で3位の成績を残せたり、キャプテンをしたりと非常に充実したラグビー生活でした。

 

高校はそのままエスカレータで鹿児島玉龍高校に進学します。

 

中学校では同級生が10人ほどいたのですが、高校の練習が怖いのかキツイのか半数近くがラグビーから離れてしまいました。

 

僕は意識が高かったので(笑)同級生の中で1人だけ、中学校3年の冬くらいから高校の練習に混ぜて貰いました。

 

当時は同級生がラグビーから離れていくのを「逃げだ」と冷めた感じで見ていましたが、今思えば同級生みんなで高校でもラグビーがしたかったですね。

少しでも自分が引き止めていたら高校ではもっと良い結果だった気がします。

 

そんなこんなで中学校ながら高校の練習試合にも混ぜて貰い(ホントはダメだったみたいでしたが)

 

練習試合で鼻を折って中学生が高校生の練習試合で怪我をしたりと色々問題になったりもしました。

 

高校では中学校の頃の先輩が多く、やりやすい環境かと思いきや

先輩達は中学校の頃よりもさらに厳しい先輩になっていました(笑)

それもあって同級生がラグビーから離れたかなと思います。

 

後輩として態度がなってないと、部活後先輩にボールをグラウンドの端に蹴られ

みんなで走ってパスをしながら帰って来る通称”ランパス”を先輩が満足するまでさせられました。

今だと完全アウトですね(笑)

 

こんな感じでキツイ高校の部活がスタートしました。

 

1年次から僕はレギュラーで出させて貰いました。175cmの58kgというガリガリだったのですがFBで頑張りました。

当時の3年生は部員も多かったのですが花園予選まで残る人は少なく、結局3年生は3人だけが花園予選に残りました。

 

その花園予選でベスト4に残ったのが玉龍が8年ぶりくらいだったみたいで、盛り上がったのを覚えています。

 

2年次は昨年のメンバーがほとんど残っていたのもありベスト3の成績を残すことができました。

 

その時の3年生は花園予選まで残ってくれて、最後までラグビーをやり遂げてくれました。

それもあってか今でもその先輩たちとは合う機会があります。

 

僕はその最後の試合で肘を脱臼する大怪我をしてしまい、新キャプテンを任されましたがしばらくグラウンドで練習できないスタートとなりました(笑)

 

自分達の代になって最初の試合である市内大会では、鹿児島実業を破り優勝することができました。

 

そのまま新人戦も優勝と思いきや決勝で敗退し準優勝。

 

結局1年間を通して、全部の大会で準優勝という結果でした。

 

ですが玉龍としては9年ぶりくらいに九州大会への出場となる結果でした。

 

しかしながらキャプテンとしてチームを勝たせられなかったのがとても心残りでした。

 

その心残りもあって筑波大学を目指すことにしました。

 

筑波大学では上のチームでプレーする機会を得られず悔しい大学生活でした。

 

もっと頑張っていればチャンスを掴めたかもしれませんが、僕は途中で諦めてしまいました。

3年生のジュニア戦で前十字靭帯を切ってしまい、ラグビーはもう諦めよう。

そう思いました。

 

何か自分に出来ることはないかと、4年次は主務をさせていただきました。コロナが蔓延した年だったので何もかも初めてのチーム作りで大変な1年間でしたが何とか卒業できました。

 

就職してからはラグビーに全く触れていなかったのですが、鹿児島に帰って来るのを機にラグビーを再開しました。

黒茶花というチームでラグビーをしています。

同時にレフリーの資格とコーチングの資格をとり、中学校のチームのコーチにも関わらせていただいています。

妻からはラグビーやり過ぎ(笑)

と言われるくらいラグビー漬けです。

 

僕はラグビーが好きなんだなと26歳にして改めて感じています。

 

ざっくばらんに僕のラグビー半生について話しました。

ずっとラグビーに対して何か心残りがあり、それを後で追い求めるのが僕のスタイルみたいですね(笑)

 

今の僕は、鹿児島県のラグビーがちょっとでも強くなったらいいな。というふうに思っています。

 

そのために自分が出来ることは少しでもやっていけたらいいなという思いで動いています。

 

いつか自分のラグビー理論を浸透させたチームを持つことが僕の夢です。

 

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